古来、暦と農業は密接に関わっていました。
古代エジプト(B.C.2900頃)では、日の出の直前にシリウスが昇る日を年の始まりとしていました。
それは、ちょうどこの頃にナイル川が氾濫して流域の土壌が肥沃になり、農作業を始める環境が整うからです。
彼らはシリウスの動きから、すでに1年が365日であることを突き止めていたのです。
このシリウスの動き(地球の公転周期)を基準にした暦をシリウス暦(太陽暦)といい、この暦がローマで採用されユリウス暦となり、のちに閏年を加えて現在へと繋がるグレゴリオ暦となったのです。
詳しくはコペルニクスとグレゴリオ暦をご覧下さい。
『暦』(広瀬秀雄編 ダイヤモンド社 1974)によると、「明治5年11月9日(グレゴリオ暦では12月9日)、新政府は突如改暦の詔書を発表した。」(中略)「同時に発表された太政官の布告には、来る12月3日をもって明治6年1月1日とすること、時刻を12辰刻法から午前午後各12時間の西洋式のものに改めることなどが述べられていた。」と記され、『暦とキリスト教』(土屋吉正著 オリエンス宗教研究所 1987)の中にも、明治5年(1872年)新政府内では太陽暦採用が建議され準備も始めらた。」(中略)「この年の11月9日には、はやくも改暦勅書が発布された。」(中略)「明治5年12月3日が明治6年1月1日と定められた。」という記述があります。
さらに『歴史読本 2012年10月号』(新人物往来社 2012.10)の中には、「明治政府は欧米列強の国家が用いていた太陽暦・グレゴリオ暦を日本に導入することを発表し、短期間で実施に踏み切った。そのため明治5年(1872)12月2日の翌日は、明治6年(1873)元旦となった。」とも記されています。
資料から、日本の改暦は新政府により半ば強引に行われたことがうかがえます。
「本年(明治5年)12月3日を明治6年1月1日とする。」「この日以降日本はグレゴリオ暦を使う。」そんな勅書がいきなり発表されたことで、当時の庶民が大混乱に陥ったであろうことは、想像に難くありません。
実はこの改暦、新政府が財政難を乗り切るために考えだした究極の歳出カットであったとも言われ、これにより公務員給与の1ヶ月分をカットしたそうです。
また、その立役者が誰あろう福沢諭吉先生で、その功績が認められてのことかどうかは定かではありませんが、一万円札の肖像として誰もが顔を知る存在となっています。
しかし、この今では到底考えられない荒業も、維新という一大変革期だからこそ成し得たのだと言えるでしょう。
『暦の歴史 「知の再発見」双書 96』(ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン著 南條郁子訳 創元社 2001)の中に、「前153年以来、新年は執政官の選挙が行われるヤヌアリウス(1月)朔日に始まっていた。」(中略)「1月に当たるヤヌアリウス(januarius)は、始まりの神ヤヌス(janus)の月だった。」とあり、『暦のはなし十二ヵ月』(内田正男著 雄山閣出版 1991)には、「紀元前222年ごろにはローマでは年始は3月15日にあり、1月に移ったのは、紀元前153年である。シーザーはユリウス暦の制定にあたり、ローマで公用に使われていた1月1日を、それまでローマで一般に使われていたローマ暦(陰暦)の年初と一致するように決めたといわれる。」とあります。
いくつかの資料の中から、要点をかいつまんでみると、共和制ローマでは、年に1回の執政官の交代が当時の年始である3月15日に行われていたのが、紀元前153年の冬にヒスパニアで反乱が起こったため、急遽前倒しで1月1日に執政官の就任をする必要に迫られ、それに合わせるように1月1日が新年になったというのです。
旧暦からグレゴリオ暦という突然の改暦で財政支出を抑えた明治政府といい、反乱鎮圧のため執政官の任期を政治的に調整した古代ローマのジュリアス・シーザーといい、暦には時の権力者たちの“都合”により改暦されてきたという興味深い歴史があるようです。
暦はエレガントな科学 二十四節気と日本人
立春、立秋などの「二十四節気」を旧暦だと思っている人が多いようですが、じつはこれはたいへんな誤解です。むしろ二十四節気は新暦とよく合っています。なぜでしょうか。それもそのはず、二十四節気はれっきとした太陽暦だからです。(本文より)
calendar-muryou.com